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”雑草” 上原物語・・

記事は・・

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至福のひと時を味わった。上原浩治投手のことだ。レッドソックスは6年ぶりにア・リーグ東地区を制し、地区シリーズ進出が決定。2013年9月20日に本拠地フェンウェイパークで行われたブルージェイズ戦で胴上げ投手となった上原は、試合後のシャンパンファイトでチームメートとともに喜びを爆発させた。

 「最高やね。でも、あと3回はやりたい」

 チームの絶対守護神はシャンパンで体中をビショ濡れにして思いっきりはじけながらも、その後に戦う地区シリーズでの優勝、そしてリーグ優勝決定シリーズ、ワールドシリーズへの進出と勝利を固く誓っていた。

ア・リーグMVP候補にもなる大車輪の活

 まだ今年の戦いは終わっていないが、ここまでの時点でも上原は十二分の大活躍を遂げている。今季からレッドソックスに加入し、クローザーに定着。9月中旬にはメジャーでの日本人歴代最長となる27試合連続無失点と、37人連続アウトの球団記録をマークした。昨季は地区最下位に沈んでいたチームを地区優勝へと導き、ア・リーグMVP候補にも、その名前が挙げられている。

 地元紙ボストン・ヘラルドが「いまやボストンでコージ・ウエハラの名を知らない人はいない」と評していたが、決してオーバーな表現ではないだろう。レッドソックス・上原は間違いなくボストンで、いや全米でスターダムにのし上がったのだ。

 しかし、あらためて彼の野球人生を振り返ってみると、決してバラ色ではなかったことが浮き彫りになってくる。

雑草魂――。これは上原がプロ入り当初から自分に言い聞かせ、信条としている言葉だ。球界のエリート集団・巨人のエースであったにも関わらず、なぜ自らを「雑草」と呼び続けているのか。この疑問を解決するヒントも、この苦難の野球人生に隠されている。

 東海大仰星高校時代の上原は、まったくの無名選手だった。当然プロから勧誘されることもなく体育教師になる夢を叶えるために大阪体育大学(以下、大体大)を受験したものの、結果は不合格。まさかの浪人生活を強いられてしまう。

 それでも上原は腐らなかった。予備校に通うかたわら警備や道路工事の夜間アルバイトをこなして家計を助け、兄から紹介された大阪市内のトレーニングジムへ通いながら肉体強化にも励んだ。

 後年、彼はこの浪人時代のことを「たとえどん底であっても一番ギラギラしていた。こんなところで負けてたまるかと常に心を燃え上がらせていた」と振り返っている。「雑草魂」の原点は、この1年間にあったと言っていい。

 浪人生活を乗り越え、1年後に大体大を再受験して合格。野球部に入ると、メキメキと頭角を現した。だが野球部は関西の阪神リーグに所属していたとはいえ、レベルの低いグループだ。専用球場もなく、グラウンドは附属高校から拝借していた。しかも学業が優先だったことから、全体練習は昼の1時間のみ。あとは授業の合間に選手が自主練習を行う。上下関係の厳しさもなく民主的。他の大学チームと比較にならないほどに自由な組織だった。

 チームには運営費もなかった。遠征費は選手の自腹。チーム内からは「カネがないから勝ち続けたらヤバイし、そろそろ負けようや」という冗談も自然に出た。しかし「こういう笑い話が心地良かった」と上原は言う。そして、こうも続けた。

 「練習のレベルは全然厳しくないし、野球のレベルそのものも高校のほうが高いぐらいで、少し拍子抜けがした。でも、こういう環境が自分の向上心を引き出すことにつながったと思う。なんでも自分でやるという意識を植え付けさせてくれたし、何より楽しく野球をやれる環境はボクにとって、とても大きかった」

こうして雑草男は大学で飛躍的に成長し、エリートを蹴散らす存在になった。大学3年のとき、全日本代表に選出されるとキューバ相手に勝利投手となり、世界最強軍団の連勝を151でストップ。上原浩治の名前は一躍、全国区どころか世界にまで躍り出た。メジャーも注目し始めたのだ。

 最も獲得に熱心だったのはアナハイム・エンゼルス。大学4年の夏、渡米してエンゼルスの本拠地アナハイムで野球を見た上原は、メジャーの魅力にとらわれた。関係者にもてなされ、エンゼルスタジアムのロッカールームを見ると気持ちは大きく入団へ傾いた。

 日本の体育会が持つ上下関係を嫌っていた上原は、大体大野球部の自由な校風と同じ空気があるメジャーの環境にほれ込んだ。アナハイムで住む家まで探し、すべてのベクトルがエンゼルス入団へ指しかかっていたが、この流れに割って入ったのが上原の獲得を熱望した巨人だった。

 よりハイレベルな舞台で投げたい。そして何よりも「自由な環境下であるメジャーのほうが能力を発揮できるのではないか」と考えていた。ところが、周囲の事情は違った。

 「好きなところで投げたいのは分かるが、通用しなかったらどうする? 米国ではやり直しが効かないぞ」「まず日本の巨人でやれることを証明してからメジャーへ行けばいい」――。

 親しい関係者からアドバイスを受けると、次第に先々のことが不安になり「メジャーで必ず成功する」と信じ込んでいた自分の能力にも疑問を持ち始めた。

 悩んでいるときに、父親から誘われた。同行すると、その場にいたのが、当時の巨人監督・長嶋茂雄だった。ルール上ではプロの監督とアマチュア選手の接触は禁止されているが、このような形で「偶然に顔を合わせ、同席した」という状況を用意すれば“抜け道”として確かに問題はない。だが、上原は喜ぶどころか逆に困惑した。父親が巨人ファンであることを知っていただけに「巨人って、そこまでやるのか……」という気持ちが膨らんでしまったのだ。

条件は巨人のほうがはるかに良かった。水面下で10億円近い金額が動いたとも報じられた。エンゼルスは新人としては異例の高額契約金3億円を用意したが、メジャー契約ではない。マイナーの1Aならば月給で10万円強。メジャーは実力でカネを稼ぐところだと言われ、現実を知った。今のように日本人投手の評価が高い時代ではなかった。

 10日間悩んだ上原は周囲の勧めもあり、最終的に安全な道を選んだ。両親や恩師、親しい知人に「メジャーの夢は日本で自信を付け、いつか必ず叶えるつもりです」と伝え、ドラフト逆指名制度を使っての巨人入団を決意したのだ。

 しかし、心は晴れなかった。進路決断の会見後、上原は「巨人逆指名」の舌の根も乾かぬうちに関係者へ「逆指名って撤回できるんでしょうか?」と質問している。最後の最後までエンゼルスへの入団を諦め切れていなかったのだ。

 こういう経緯で入ったから巨人では「チーム愛」を貫くことはできなかった。日本球界を代表する投手に成長できたのは「いつか必ずメジャーの舞台に立つ」という夢を持ち続けていたからだ。

 「ボクは“巨人のために”なんていう気持ちはこれっぽっちもない。でも契約している以上はきっちり結果を出しますよ。仕事ですから」

 巨人時代の上原は「オフレコ」として親しい人間に、こう本音を漏らしていた。よく言えば正直でストレート。悪く言えば自己中心的。だから、あまりのマイペースゆえに巨人では時として軋轢(あつれき)も生んでいた。

 先発して降板すると直後にロッカールームへ。ベンチ裏ではストレッチとクールダウン、アイシング治療……。登板後は人一倍のケアを心がけていたからだ。だが、そんな上原に「降板後の戦況はベンチで見ることがほとんどない」とマユをひそめる巨人関係者も多かった。先発はマウンドを降りれば、ベンチでチームを応援するのが日本流のしきたり。それだけ上原の特異さが目についたのだ。

巨人のルーキーだった1999年10月のヤクルト戦ではロベルト・ペタジーニを敬遠。当時、チームの主砲・松井秀喜とペタジーニが本塁打王争いをしており、松井が敬遠された対抗策として巨人ベンチから敬遠が指示された。上原は渋々ペタジーニを歩かせた後、悔しさでマウンドの土を思いっきり蹴り上げると号泣。一歩間違えば首脳陣に対する采配批判だが、それを覚悟で感情を露にした。こんな一本気な性格を持つ投手は後にも先にも、上原以外にいない。

 窮屈そうにガマンを重ねながらも結果だけは出し続け、2008年のオフに念願かなって巨人を“脱出”。FA宣言後にボルティモア・オリオールズと契約すると、今まで見せたことがなかったような飛びっきりの笑顔を浮かべた。

 今季でメジャー5年目。巨人では煙たがられていた自己中心主義もメジャーでは逆にプラス要素となっている。選手は結果がすべてであり、そのためには練習や調整も自分のやるべきことをこなすというのがメジャーのスタンス。自分の結果を追い求めることで、チームの勝利につながればいいという考えだからだ。

上原浩治 上原の2013年シーズン成績(出典:MLB)

 長いガマンと努力を積み重ね、ようやく自分を生かせる環境に身を置いた上原は今、円熟期に達したと言っていいだろう。夢を諦めたくないビジネスパーソンにとっても「雑草魂」の生き方は、大いに参考になるはずだ。

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どうやら私は”上原”を知らなすぎた感じで 申し訳なく思っています^^;

今後彼がどんな道を行くのか・・

興味がわいてきました^^;

応援します^^/


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温泉観光都市愛媛県松山市在住の夜専門タクシ-ドライバ-の日記です(笑)☆ 色んな事のボヤキ満載?かも・・